私は仏典を勉強したわけでもなく、詳しいわけでもありません。
そんな私が「中道」について私見を述べてみます。
先日知人がSNSに「善にも悪にも寄らず中道でいたい」というようなことを書いていたのを読んで、ん?それはただの真ん中では!?と思いました。
中道とは
二つのするものを離れていること。での道。原始仏教ではと快楽の両極端を退けた考え方。
by. goo辞書
宗派によっても異なるようですが、対立軸を離れているというのが基本的な意味のようです。
これってどういうことでしょう?
ここでちょっと余談ですが、、、
1979年、機動戦士ガンダムが放映されました。
それ以前のアニメは正義の味方と悪者がはっきりと分かれていて、戦いの末に正義が勝つ!というストーリー展開が主流でした。
善か悪かの対立軸を持つ二元論ですね。
ガンダムはその善悪二元論を脱し、双方どちらにも戦う理由があって、いろんな想いを抱えた同じ人間同士が戦っているのです。
地球連邦軍が勝利した、ばんざーい!と手放しで喜んで終われる物語ではありません。
私はこのガンダムにまつわる話で、「二元論」の辞書的な意味を知りました(笑)
感覚的な「中道」
アニメの話だと、「そうね、どちらにも想いがあって切ないね」と言えるのですが、現実の争いだと、ついどちらかの肩を持ったり、ジャッジしてしまいます。
「良い ー 悪い」
「正義 ー 悪」
「真実 ー 偽り」
「平等 ー 不公平」
「必要 ー 不要」 など
人はこのような二元のどこかに軸を置きがちです。
「これは真実っぽいけど、偽りの情報には気を付けよう」とか
「あの勢力は悪だけど、こういう側面では必要かも」とか。
二元のどこに軸を置くか、考えて判断するのは「エゴ」です。
「二つの対立するものを離れていること」とは、エゴによる価値判断を手放した状態で初めて得られる感覚なのだと思います。
私はまだまだエゴが囁いてくることはありますが、
価値判断を手放してきた結果、
良いも悪いも、正義の悪も、すべてを「矛盾なく、まるっと含んでいる」という感じになってきました。
そうなると、あれが悪い、これはどうだ、と思うことがなくなり、
人を責めたり、自分を卑下したり、他人と比較したり…もなくなって、
結果的に心が平和でいられます。
頭で意味を理解することと、その感覚になることは違います。
自分の感覚を超えて理解することはできません。
ご自分の中の「価値判断」に意識を向けてみてください。
私たちが、自分たちの間にある違いは信じる内容だけであり、
そうした信じる内容は簡単に創ったり消したりできるものだと気づくとき
正しいとか、間違っているとか主張するゲームが終わりをつげ、
共に創造するというゲームがはじまり、世界に平和がおとずれます。by ハリー・パルマー