苦しみを経験する
私は「人間」の体験をしたくてここ(地球)に来ました。
何かで読んだことはあるし、「きっとそうなんでしょうね‥」とは思っていましたが、心の底から実感が湧いてくることがあります。
以前にも書きましたが、昨夏、電車に乗っている時に
「たくさんの人がいるのに、誰も私の考えていることが分からないし、私も周りの人が考えていることが分からない。
『個』ってこういうことか!
この経験がしたかったんだ!」
という想いが唐突に湧き上がって涙が出てきました。
こっそりと泣きましたw
その後、自分が宇宙人だった記憶が出てきて、
この想いは集合意識で生きていた時に、地球に、そして『個』の意識で生きている人間への憧れから、地球で人間として生きたいと強く望んで来たことを思い出しました。
そして最近は、ある知り合いが気になって、「なんで気になるんだろう。この人が私の何なのか知りたい!」と思うことがありました。
執着になってたんですね。
1~2日そんな状態だったので手放そうと試みたところ、
「これこれ!この苦しみを味わいたかった!悲しみ、痛み、切なさを経験したかったんだ!」
となって涙がでた後、楽しくなって笑いが止まらなくなりました。
だいぶ怪しげなヒトになってますがwww
また、以前には「覚醒体験の時のような、愛の意識だけで生きるなんて退屈だ!覚醒したくない!」と言う想いが込み上げてきたこともあります。
人間の本質は「愛」です。
でも、愛だけでは苦しみや悲しみは経験はできません。
そんな経験をするために他者がいて、それぞれが「個」の意識を持っているのです。
今わたしは、ひとつひとつのあらゆる経験が、かけがえのないものだと分かりました。
全てが愛おしいです。
その時に苦しみ、悲しみ、悩んだ自分が愛おしいです。
今直面している苦しみも、これまでの、これからの試練もすべて、「経験したい自分」がいるのです。
そう思って、覚悟を決めて進んで経験していると、早く過ぎ去っていきます。
悩みの中にいる時、少し俯瞰して「経験したい自分」がいるんだと感じてみてください。
愛を知り、感謝を放つ
最近強く思うこと。
人間の営みとは、「愛を知り、感謝を放つ」ことだなぁということ。
私たちは大抵、自分が愛そのものであること、すべてが愛であることを忘れてしまっています。
かく言う私も、少し前までは「愛って、、、💦」とドン引きしていましたw
人間にとって生きることとは、生理的欲求を満たしたり、経済活動をすることだと思われがちです。
もちろん、それが間違っているわけではなく、社会の中での一つの側面です。
でも、「人間とは何か」という視点では、「愛を知り、感謝を放つ」存在であるとも言えるのです。
私たちの細胞の一つ一つが愛であり、生命となること。
愛と感謝の波動が、自分を、他者を、世界を平和にすること。
これらを想い出して、と言われてもピンと来ないかもしれません。
以前の私のようにwww
でも、いつかタイミングが来ると、あぁこのことだったのか!と解るときが来ます。
家族や恋人や動物を「愛おしい」を思う気持ちも、もちろん愛です。
自分の中の愛が呼び覚まされ、相手の愛を見出すことができます。
でも自分を「愛おしい」と思えなければ、相手に自分を満たしてくれることを求めてしまいます。
相手に求めることは愛ではありません。
戦争反対を訴えるより、愛をもってすべてを受け入れる方が世界は平和になるのです。
次元上昇って?
最近「話が難しい」と言われることが何度かありました。
私は子どもの頃から本を読むことが好きで、言葉が大好きで、言葉というのは何でも表現できると思っていました。
それが今では確かに、自分でも言葉にできない、どう表現して良いか分からない感覚が増えました。
どうやら物事の感じ方が変わったようです。
人は何かの情報が入って来た時、無意識に価値判断しています。
「意見を持つ」とも言います。
これについては以前にも記しました。
どうしても三次元の世界では、二元論の思考になります。
良い ---- 悪い
真実 ---- 偽り
正義 ---- 悪
光 ---- 闇
という軸の上で思考しています。
「この塩は身体に良い」と言う時、「体に悪い塩もある」という意見も創り出してるのです。
「だって食べることは大事だもん」と言う時、「それほど大事でもないことがある」という意見を創っています。
「我々は間違った歴史認識を教え込まれてたんだ!」
「人間の意識が拡大することを意図的に妨げられている!」
と気付いて、
「正しい歴史を取り戻そう!」
「○○は闇の組織だ!」
「これが真実だ!」
というようなことを発信したり、調べたりしている方たちが私の周りにもおられます。
でもそれって、二元論の端から端に移動しただけ。
一つの視点から解放されたのは確かでしょう。
そして初めて他の視点があることに気付くという過程も必要です。
でも、その時点ではまだ二元論の軸の上です。
私が「言葉にするのが難しくなった」理由は、「これは〇〇だ」という価値判断を持たなくなったことが大きいと思います。
それはつまり、世の中を見る時のフィルターがなくなってきた、ということでもあると思います。
以前に詳しく書きましたが、

この「B」がなくなってきた、ということですね。
この説明はこちら↓
このフィルターがなくなると、起こることはただ起こるだけになります。
「誰か」の真実や意見も、常識も正しさも、真実も偽りも、すべては「そのように在る」だけ。
私はそのすべてを信じているし、同時に信じてもいない、という感じでしょうか。
最近読んだ本で腑に落ちたんですが、この感覚は二元の軸の上ではないようです。
だから言葉にすることが難しくなっていたんです。
(言葉って、基本的には三次元で使われるコミュニケーション手段だそうなので)
そしてその状態は、次元が上がっているということのようです。
何次元か、とかは知りませんがw
「次元上昇」という言葉もよく耳にしますが、
そのためにできることの一つが「価値判断を手放すこと」なのだと思います。
では、どうすればそれができるのか。
アバターコースほど効果的なものを、私は知りません。
もしご興味があればお気軽にご連絡ください。
mizosan3@gmail.com
身口意の話
「身口意(しんくい)」ってご存じですか?
仏教の根本的な教えの一つだそうで、とても端的で解りやすい言葉だと思っています。
この三つが揃い調和が取れていると、現実がスムーズになり、ストレスなく生きられる、というものです。
身(しん):行動・動作・振る舞い
口(く) :言葉による表現
意(い) :意識・心に思う思慮分別
痩せたいと思っているのに間食してしまう、というのは身口意が調和していませんね。
週末に友達と旅行に行く、という楽しいことには、身口意が揃うので実現します。
以前トレーニングジムに通っていた時に、バイクを漕ぎながら据え付けのテレビを見ながら雑誌を読んでいる人がいました。
何がしたいんだろう‥と思いましたw
普段からこの三つの調和が取れている人は、周りの人からも信頼されます。
裏表なく、有言実行の人であるからです。
この三つの内、一番大切なのは「意」だとされています。
意識にあることが言葉となって表されたり、行動となるからです。
自分が今、何を感じ、考えているのか。
どんな価値観を持っているのか。
自分の内面を知ることが大切です。
自分より優れた人にキツく当たってしまうのは、羨ましいからかもしれません。
人の言うことを鵜呑みにするのは、責任を取りたくないからかもしれません。
ストレスを感じた時、身口意が揃っているか振り返ってみてください。
現実を変えたいとき、意識的に身口意を揃えてみてください。
目的地を定める
なんとなく流されて生きてきた私は、「私はこれをやり遂げる!」みたいな目標もなく、かと言って、その時の自分に満足していたわけでもなく、「人生ってそんなもんでしょ」症候群みたいになってましたw
仕事もプライベートも充実していそうな人を見ると羨ましいとは思いましたが、自分もそうなろうとは思えず、「そうなれたらいいなぁ」と「私には無理だよね‥」が同居して、その希望には蓋をしていました。
意識と現実の関係から言うと、まず目的地を定めないことには現実は動きません。
旅行に行くのにも、漠然とした「涼しいところ」という目的地にするのか、「北海道」と具体的にするのかで、目的地到達までの速度が変わります。
目的地がはっきりしたら、何日必要が、要るものは、交通手段は、知っておくべきことは‥と行動できることが見えてきます。
もちろん、初めは漠然と方向性を定めてから色々調べている内に、自分はどんなところに行きたいのかが見えてきて、目的地が決まることもあります。
今の自分が好きじゃない、もっと違う自分になってみたい、というだけでは先に進むことはできません。
目的地を決めるか、「目的地を見つける」と決めてみてください。
ある場所を立ち去ろうと思うだけでは十分ではない。他の所へゆきたいという望みがなければだめなのです。
感じるということ
現代人は頭を使ってますよね~。
よく考えて、間違いのないように‥‥
学校でも「よく考えなさい」とは言われますが、感じることには言及されません。
素直な私も教え込まれるがままに、よく考えて生きてきましたw
今どう振る舞うべきか、色んな事に備えて、いつも「正解」を探していました。
そしてここ数年は、自分が今までいかに「感じる」ことをして来なかったか、実感しています。
感覚に蓋をして、自分が今、何を感じているかさえも気づけなくなっていました。
過去のことや未来のことを考えていて、「今ここ」に意識が留まることがあまりありませんでした。
感じる力が増えると、今までは何とも思わなかったことに感情を動かされます。
絵を見ても、今までは解説を読んで、その絵は何を意味しているのか、「正しい見方」を求めていたように思います。
ただ感じれば良いのに‥
感じてみてください
最近、色に興味を持ちました。
絵は全く描けませんが(笑)
空を描くならどんな色を使うかな、と思いながら見ると、ただ眺めるのとは感覚が違ってきます。
天気はもちろん、方角によって、時間によって、季節によってその色合いは変わります。
美しいグラデーションに、思わぬ色が隠されていたりします。
樹には何色が?幹は?葉の重なりは?陽の当たり方で違いは?
そんなふうに、色を観察してみるだけでものの見方が変わります。
感じ方が変わります。
耳を澄ませてみましょう。
ザーっという騒音に、時折車が通る音が聞こえたり、遠くで話声がしたり、鳥が囀っていたり‥
匂いはどうでしょう?
鼻に入っている空気がひんやりと感じるかもしれません。
皮膚は今、何を感じていますが?
Tシャツの袖が腕に触れるのを感じるかもしれません。
食べる時、他のことを考えていたり、動画を見ながら食べていませんか?
まず、これから食べるものを観察してみてください。
匂いは?
口に入れた時の感覚、舌で触って噛んでみて、喉を通っていく感じはどうでしょう?
日常の中で、感じる時間を作ってみてください。
「今、ここ」で、この世界をありありと感じてください。
世界ってこんなに素晴らしいんだ!とさえ思います。
「地に足をつける」ということ
私は数年前まで、「地に足をつけて生きていこう」と思っていました。
その頃の「地に足をつける」とは、夢を見すぎず、堅実な仕事に就いて、給料の中からやり繰りして貯金をし、老後まである程度の見通しを立てて生きることでした。
なので、「日本から貧困を無くす!」などと大きな夢を掲げる人は、地に足がついているとは思えませんでした。
ましてスピリチュアルなんて、フワフワした現実逃避のイメージしかなかったので、地に足をつけることとは正反対だと思っていました(笑)
「地に足をつける」って、もっともらしく聞こえるけれど、実のところとてもあやふやな言葉だと思います。
その人の現状によってイメージが変わります。
アメリカの起業家ジム・ローンは「あなたは、最も多くの時間を共に過ごす5人の平均値である」と言いましたが、人はそれだけ周りの人に影響を受けて生きているということです。
自分が変わり、周りの人が変われば、「地に足をつける」ことの意味も変わってくると思います。
今の私は、グラウンディングがきちんと出来ていると感じる時や思うように物事が進んでいる時に、「地に足がついている」と感じますが、その感覚も変わります。
「自分は地に足がついている」と感じている時や、「地に足をつけましょう」という言葉に惹かれた時は、
その「地」は絶対的なものではないということを知っておいたほうが、変化はしやすくなります。